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呉線のC59,C62/1969年7月30,31日 [呉線]

四国均一周遊券のうまみを生かして,予讃線堀江駅から仁堀航路を使って,呉線のSLを見に行きました.ところでみなさんは仁堀航路ってご存じでしょうか? 四国と本州を結ぶ国鉄連絡船といえば宇高連絡船が有名ですが,当時はとってもマイナーなもう一つの連絡船が,予讃線堀江駅と呉線仁方駅の間を就航していたのです.後にも先にも,私もこの連絡船に乗ったのはこのときだけでした.ネットで調べると,1982年に廃止になったとのことです.

さて,呉線といえば,この当時は,C62やC59といったかつての花形SLが生き残っている線区ということで有名で,さらに,これらが急行列車「安芸」を列車サインを付けて引いていることで,多くの鉄道ファンが訪れたところです.私も,今回の訪問で味を占め,翌年の春にもまた呉線を訪れました.

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▲C59 161の引く38列車急行安芸.安芸川尻-安登間.1969.7.31

◆◆◆ 7月30日

高松を8:04発の急行うわじま4号に乗り今治へ,そこで普通1125列車に乗り継いで堀江に着いたのは11:31でした.堀江港12:15発の4便,安芸丸に乗って,仁方港に着いたのが14:20でした.ところでみなさんは「仁堀航路」ってご存じでしょうか.これは,予讃線堀江と呉線仁方を結ぶ国鉄連絡船です.当時,四国と本州を結ぶ国鉄連絡船としては宇高連絡船がよく知られており,これが四国に入るメインルートでした.それを補うようにずっと西の方に仁堀航路があったのですが,これは1982年に廃止になったそうです.

さて,仁方について休む間もなく安登駅へ移動,安登に付いたのは14:59でした.急行安芸は寝台列車で始発駅を出るのも遅いので,この時間でも十分に間に合います.さっそくロケハンもそこそこに,上り急行安芸の撮影に挑みました.もっとも,今回は8mm優先にしました.もちろんテレコも持参しています.


▲38列車,急行安芸.安芸川尻間-安登.C62 15.

この急行安芸が通り過ぎる前に,荷物42列車が通りますが,これも大型SLが牽引しています.

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▲荷物42列車.C62 23.安芸川尻-安登.

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▲926列車.C62 37.海田市駅.

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▲EF59 7.海田市駅.安全カラーが塗られており,おそらく入れ換え用なのだろう.

p0097.jpg今日はこれ以後はあまりパッとしないので,安登に戻り,16:21発の645D列車で広島に行きました.途中の海田市駅では,バック運転のC6237が牽引する926列車を見たり,駅に止まるEF59を撮影したりしました.そして宿泊地は,広島ユースホステルです.

◆◆◆ 7月31日

広島ユースホステルを7:00に出て,広島発7:44の328M電車に乗りました.この旅行で「電車」に乗るのは久しぶりです.向洋で降り,駅のホームでD51 1058の引く貨物列車を撮影し,呉線のSL普通列車624レに乗り換えました.

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▲向洋駅に停車する,貨物676列車.D51 1058.D51は4桁の車両台数があるのですね.

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▲呉線624列車,D51 755.SL列車に乗って,撮影に出かける.向洋駅.

昨日までの晴天と違って,朝から曇り空,天気は持つかな?と案じていましたら,列車が進むにつれて雨が降り出し,目的の安登駅に着いたときには本降り.安登近辺で下りの急行安芸を撮影しようと思っていましたが,この雨では気持ちが萎えてしまいました.しかたなく,安登駅のホームで,通過する急行安芸を撮影することにしました.雨が降って少し気温が低かったのか,煙突からです水蒸気が白く湯気になっていました.


▲37列車,急行安芸,C59 161.安登駅.

急行安芸は,C62かC59が牽引することになっているのですが,C59は台数が少なく,多くはC62が引くと聞いていました.やってきたのはC59牽引の安芸でした.曇っていた気持ちも少し晴れました.急行安芸は確か東京発呉線経由の広島行き寝台列車ですので,下りは午前中に通ります.

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▲37列車,呉線経由広島行き急行安芸,C59 161,安登駅.上の映像と同じ.

さて,安芸号は安登駅で撮影しましたが,とにかくここまで来ているので,雨の中,安芸川尻の方に向かって歩いていきました.もちろん,次の上りの安芸号の撮影位置をロケハンすることが目的です.途中,D51の引く普通列車や貨物列車が通過する時刻になると適当な位置を見つけて撮影をしました.

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▲下り貨物列車,D51.列車番号不明.安登-安芸川尻間.

呉線の多くは海岸線に沿って走っており,何とか海と列車を同時に入れて写真をと考えましたが,適当に線路沿いを歩いただけではそんないいポイントが見つかるはずもありません.上の写真などは,今思うとなぜ木の間から撮ったのか不思議ですね(笑).雨宿りしながらの撮影だったからかもしれません.

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▲673列車,D51 761.安登-安芸川尻間.

そのうち雨も小降りになってきて,少し希望がもてるようになりました.安登から安芸川尻の間に,海岸線から少し離れて丘を登っていくようなロケーションがありました.上り列車が上り勾配に差しかかる部分で,大きくカーブしていて遠望もききいい感じです.ただ,電線がカーブの外側にあって,撮影位置から列車と重なります.これ以上歩いても仕方ないと判断して,ここで,上り急行安芸と,その前に通過する荷物42列車を撮影することにしました.トップのカラー写真はこの位置で撮影したものです.

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▲荷物42列車,C62 23.安芸川尻-安登間.

ここでは動画も撮りました.でも音声を撮っていません.ずっと以前の編集時にも見つからなかったのを覚えています.ということで,動画は音声なしになっています.


▲荷物42列車,C62 23.安芸川尻-安登間.音声はありません.


▲38列車,急行安芸,C59 161.安芸川尻-安登間.音声はありません.

さて,呉線に来た目的は達成できましたので,あとは帰りの船の時間まで,通る列車を撮影するだけです.そこで,安芸川尻まで歩いた後,645D列車で広の方に移動しました.広から安芸阿賀の方に歩いて,黒瀬川の鉄橋で撮影することにしました.街の中になると,障害物のない川が一番撮影しやすい場所になります.

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▲黒瀬川の鉄橋を渡る922列車.C62 16.短い区間の往復運転はC62といえども逆進する.安芸阿賀-広.

上の922列車は,広島発広行きで,この鉄橋を渡るとすぐに終着の広に着きます.そして機関車を先頭に付け替えて,すぐに929列車として広島へ戻ります.

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▲929列車,C62 16.上の列車が広から引き返してきたものである.広-安芸阿賀間.

朝夕は,C62,C59,D51の引く通勤列車が,広島と広(本当は呉までが目的だと思いますが)の間を,たくさん走ります.朝のうちのこの集団は,急行安芸を安登駅の方面で撮影するためにパスしてしまいましたので,夕方の方をまとめて撮ろうというわけです.922列車の次は,924列車です.

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▲924列車,C62 15.広-安芸阿賀間.

上にも書いたように,これらの列車は広島-広間を走りますので,あまりいい撮影ポイントがないのじゃないかと思っていました.ゆっくり探せば,あるのでしょうが,まあ,一見さんではしかたありませんね.

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▲荷1043列車,D51 755.安芸阿賀-広間.黒瀬川鉄橋.

そろそろ帰りの列車の時刻が近づいてきました.広から仁方へ出て,仁方港から仁堀航路でふたたび四国に戻ります.広19:33発のC62 37の引く628列車で仁方へ移動しました.広から仁方へはわずか一駅.7分間の旅でしたが,この時期といえども,もうC62などという大型機の引く普通列車にはなかなか乗れないので,お別れにはちょうどよい列車でした.

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▲呉線で買った切符.
  左:最後に四国へ帰るときの切符.広から予讃線伊予北条までたったの360円!
  右:小さな移動に使った切符.固い厚紙の切符が懐かしい.20円という値段表示にはビックリ!

仁方港19:50発の7便,安芸丸で堀江港に着いたのが少し遅れて22:00,堀江駅に行って22:04発の1142D列車に(これ確か遅れた連絡船を待っていてくれたように記憶している)乗って今治到着が23:16.こんな夜中にと思うかもしれませんが,なんと四国内には夜行列車があったのです! 今治0:38発の急行うわじま9号で高松到着が3:25,そのまま高松始発4:37の普通列車531Dに乗り継いで,地蔵橋へ朝のハチロクやC11の列車を撮影に行きました.いやはや,今考えるととんでもない強行軍です.高校生の体力って,自分で言うのも変ですが,すごいものですね.この続きは次回.

四国のSLを追って (4) 高徳線大坂峠/1969年7月28-29日 [四国各線]

牟岐線で朝の列車たちを撮影した後,高徳線阿波大宮駅付近,大坂峠へ,峠を登るC58列車を見に行きました.高徳線,徳島線,牟岐線,いずれも平地を走る部分が多いのですが,ここだけは峠越えの坂道が続きます.

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▲貨物384列車,C58 367.板野-阿波大宮.

今まで列車の中から見ていた風景を思い出しながら,今日は,ロケハンをかねて,阿波大宮付近を歩いて回りました.上の写真の,板野を出て阿波大宮に近づいた,川沿いを大きく左にカーブしながら登ってくるところは,遠くから近づく列車を見ることができるので,ここで,明日は8mmを回すことにしました.

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▲貨物387列車.阿波大宮から板野駅へ下る.C58.

阿波大宮から讃岐相生の方へも少し歩きました.そこにはトンネルがあって,ここから出てくるSLをねらえそうです.

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▲貨物386列車,C58 333.阿波大宮-讃岐相生間.トンネルに入る手前.

明日はできるだけたくさんのSLを見るべく,一日大坂峠で過ごすことを決心し,28日はこれで引き上げました.阿波大宮発16:42の358D列車で高松に戻りましたが,途中,上の386列車を三本松駅で追い越しました.

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▲貨物386列車,C58 333.三本松駅.

◆◆◆ 7月29日

さて,次の日の早朝,高松4:37の始発で,阿波大宮駅に向かいました.高松では,SLが止まっていましたので,夜の写真を一枚...,このころはストロボなんて高価なものは持っていなかったので,これはいわゆるフラッシュ撮影です.

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▲出発を待つC58 104.高松駅.

阿波大宮に着いたのが5:52.夏の空はもうすでに明るくなっています.列車時刻表とにらめっこしながら,予定のポイントへ移動します.まずは上りのSL一番列車322列車です.いわゆる夏の朝曇り,すこしもやがかかったような空気の中を,C58 110が通り過ぎました.

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▲旅客322列車,C58 110.板野-阿波大宮.

続いては下りSL一番列車,321列車です.こちらは讃岐相生の方から登ってきますから,例のトンネルの出口へ急ぎます.機材を持って早朝から見知らぬ男が走り回っているのですから,地元の人は変に思っていたのじゃないかなぁ.

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▲旅客321列車,C58 121.讃岐相生-阿波大宮.

トンネルを出てくるSLは,意外とおとなしい走りでした.トンネル内で煙は多く出せないでしょうからね.次は貨物の上りSL一番列車,382列車です.

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▲貨物382列車,C58 333.阿波大宮-讃岐相生.

阿波大宮駅の近くは山が接近し,列車を遠くから撮影するいい場所があまりありません.そこで,一応3本の列車が撮れたので,阿波大宮駅から讃岐相生駅の方へ移動することにしました.讃岐相生は,海岸線から大坂峠に入っていく眺望のよいところが広がっています.阿波大宮8:18発(まだこんなに早い!)の340D列車で讃岐相生に行きました.

ここで,讃岐相生から阿波大宮へ登っていく貨物385列車を撮りましたが,完全にピンボケ.使っていたカメラは一眼レフではなく,コニカS3という距離を勘で合わせて撮影するのものなので,気づかなかったんですね.残念.次のSLは,時刻表によると,貨物384列車と387列車が阿波大宮駅で行き違います.それまで少し時間があったので,徳島駅まで行って食事をしました.わざわざ讃岐相生から徳島まで移動したのは,このころはコンビニという便利なものがなく,早朝4:30に出たりすると,弁当の手配もできなかったのですね.また讃岐相生という田舎の駅では食堂もすぐには見つかりません.時代が違いましたね.

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▲貨物384列車(C58 155)と387列車(C58 367)の行き違い.阿波大宮駅.

写真は電柱が邪魔をしていますが,両方のSLを入れようとすると,これしか位置がありませんでした.387列車の機関士がタブレットをタブレット受けに掛けようと構えているのが分かります,右端に写っているらせん状のものがタブレット受けです.このタブレットを左側に停車している384列車の機関士が受け取って,やっと発車が許されます.

駅で387列車を待つ間,先に到着している384列車の機関士さんが話しかけてくれました.この時代,SLを追って四国にやってくる人は珍しいのでしょうか.下の左側の写真,もくもくと煙を上げていますが,これこの機関士さんのサービス?のようでした.そして横を通り過ぎるとき,手を振ってくれました.今では線路横で写真を撮るのは危険行為ということで,きっといい顔をしてくれないと思うのですが,本当にこの時代はのどかでした.なお肖像権があると思うので,機関士さんの目の部分に少しぼかしを入れさせていただきました.

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▲阿波大宮駅を発車する貨物384列車,C58 155.機関士さんが手を振ってくれている.

さて,今日の最後は,板野から登ってくる貨物386列車です.昨日決めていたように,これは遠くが見通せる川沿いの地点で8mmを回すことにしました.午後は山腹に日が当たり,ちょうど順光にもなります.大坂峠の最後に,動画を紹介します.重いテレコも持参して音入りにしています.思えば今日一日テレコを担いで移動しまくったのだなぁ.今回の撮影旅行では,ここがメインなので,小遣いをはたいて買ったカラーフィルムにしています.見え隠れしながら登ってくるC58 12とそのドラフトの音,懐かしいです.


▲貨物386列車,C58 12,板野-阿波大宮.1969.7.29.

帰りは昨日と同じ,358D普通列車.三本松で,上の386列車を追い越して,高松に戻りました.

明日は色気を出して呉線へC62を見に行くことにしています.四国内は均一周遊券でタダですから,予讃線堀江まで行って,仁掘航路で呉線仁方へ渡ります.大坂峠は,讃岐相生の方がまだ消化不良で,これは呉線から帰ってきてからもう一度行くことにしました.これで内子線のC12を見に行く暇はなくなった感じです.

四国のSLを追って (3) 地蔵橋から小松島へ/1969年7月28日 [四国各線]

四国訪問の3日目,7月27日はお休み.4日目,7月28日はまず高松を4:37に出て531D列車で一気に地蔵橋まで行きました.地蔵橋到着は6:48,朝到着するハチロクの引く522列車を撮影しました.これは一昨日佐古駅と蔵本駅の間で撮影したものと同じ列車です.

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▲朝の地蔵橋に到着する522列車.78647.蔵本駅まで乗り入れている牟岐線の列車である.

これを撮影してから中田の方に向かって歩き,いくつかの列車を撮影しました.

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▲上二枚は424列車.C11 31.地蔵橋-中田.

このC11 31の引く列車は一昨日蔵本-佐古間で撮影したのと同じ列車です.偶数の列車番号が付いていますが,蔵本駅から来たもので,徳島線から牟岐線に入って小松島の方へ行くときには上りの番号のままという不思議な列車です.たしかに始発とその次の蔵本-佐古区間は上り線ですから,出発時は確実に上り列車です.そういう理由でこの番号を引き継いでいるのでしょうね.

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▲高徳線321列車の回送.C58 333.地蔵橋-中田.

朝は,この区間をよくSL列車が走ります.小松島駅へ行く424列車をはじめ,高徳線や徳島線の回送列車が次々と通過します.

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▲徳島線426列車の回送.78647.地蔵橋-中田.

一連の列車を見送ってから地蔵橋へ戻り,いったん徳島へ戻ってから次は小松島へ行きました.小松島に着いたのは10:50分.小松島機関区で休んでいたSLは一番はじめの四国のページで紹介しました.そこで写っているC58 333やC11 31は,この上の写真の列車を引いていたものです.小松島線は今は廃線になっており,下のような風景を見ることはもうできません.

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▲小松島機関区の全景.

小松島駅を出たのが11:22で,いよいよ次は大坂峠です.平地の田園地帯を軽やかに走るSL列車と違い,急勾配を登るC58を見に行きます.

四国のSLを追って (2) 徳島線/1969年7月26日 [四国各線]

初日は何とか予定通りの写真が撮れましたが,二日目の徳島線はあまりうまくいきませんでした.遠征してSLを撮影に行くと,どうしても,1列車でも多く撮影機会を得ようと,かなり無理して移動する計画を立てるのですが,このことは,結局現地で撮影地をロケハンする時間が圧縮されることになります.この日はそういった感じの連続でした.

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▲蔵本から徳島へ向かう424列車.C11 31.徳島線蔵本-佐古間.

鳴門ユースホステルを6:45に出発し,鳴門駅から735D列車で佐古駅に向かいました.佐古は高徳線から徳島線が分岐する駅です.佐古駅から隣の徳島線蔵本駅まで歩きながら,撮影地を探しました.というのは,実は8620型(通称ハチロク)の牽引する一部の列車が,牟岐線から徳島駅を越えて蔵本駅まで乗り入れているので,それを撮影するためです.

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▲牟岐線から徳島線に乗り入れている522列車.78647.徳島線佐古-蔵本間.

蔵本駅では,折り返しの徳島駅方面に出発する78647号機の牽引する426列車を撮影しました.ほんの一部区間ですが,徳島線をハチロクが走っていたことになりますね.

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▲522列車の折り返しの426列車,78647.徳島線蔵本駅.

このあと,この列車に乗って徳島へ戻りました.こういう古い形式の蒸気機関車が引く列車に乗るのも,なかなかいいものです.次のねらいは徳島線を走る428列車です.これはC58が引いています.これを2度撮影するために,貞光まで401D急行よしの川1号と439D列車を乗り継いで,貞光駅に10:16に着きました.ここで,428列車を撮影し,10:40発の急行よしの川2号でこれを追い越し,穴吹駅でもう一度撮影しようという計画です.したがって,貞光駅ではわずか24分間しか時間がありません.でも結局これは無理な計画で,貞光駅ではいい撮影位置を見つけることができず,あれあれと思っている間に428列車は貞光駅を発車,結局線路のそばから通過していくC58 12を撮っただけでした.

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▲貞光駅を発車し徳島方面へ向かう428列車.C58 12.

今思うと,なぜよしの川1号で一気に貞光まで行かなかったのか不思議ですね.昔の自分の考えていることはよく分かりません.さて,穴吹駅でも時間が少なかったし,この428列車に乗ることもあったので,駅でC58 12を撮影しました.そして,これに乗ってもう一度徳島駅に戻りました.当時は,撮影だけでなく,蒸気列車に乗ることも楽しみだったのですね.

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▲428列車,C58 12.穴吹駅にて.

428列車で徳島へ戻ってから少し時間があったので,徳島の操車場をのぞいてみました.そこでは,ハチロクが入れ換え作業をやっていました.他にC58もいました.このハチロクの入れ換え作業もなかなかおもしろかったのですが,時間がなかったので後日来ることを心に決めて,505D急行阿波5号で板野駅まで貨物列車を見に行くことにしました.

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▲左上:徳島線の428列車.牽引するC58 12.左下・右:入れ換え作業をする78680,徳島操車場.

板野駅では,貨物386列車と387列車が行き違います.先に入った387列車はC58 121が牽引するもので,駅で写真を撮ってから,駅から少し離れて撮影ポイントを探し,386列車の出発を撮ることにしました.

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▲板野駅に入線する386列車.C58 110.

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▲板野駅に止まる387列車,C58 121.

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▲板野駅を出発する386列車.C58 110.腕木信号が懐かしい.

板野駅の貨物2列車を見送ると,今度はまた507D急行むろと4号で徳島駅に引き返します.昨日地蔵橋駅で撮ったハチロクの引く521列車を見送るためです.私がこの列車の発車音を録音しようとテープレコーダーを構えていると,機関士さんが声をかけてくれて,指差喚呼の声を録音させてくれました.今でも不思議とはっきり覚えているのですが,

「通票二軒屋サンカク,はい,サンカクよーし」

という声です.サンカク(△)というのは,タブレット(通行票)に付いている信号の形です.通行票は単線区間では普通に使われているものでした.この場合徳島駅と次の二軒屋駅の間は単線ですから,間違って両駅から同時に列車がこの区間に進入しないように,徳島駅と二軒屋駅の間の通行票の形を△と決め,この△の通行票を持った列車だけが,この間を通行できるというふうに決めておくのです.そうすると△通行票は1つしかありませんから,この単線区間を走る列車も1列車だけということになります.(注:二軒屋駅ではなく地蔵橋駅までがこの通行票の閉塞区間だったかもしれません).

この録音したテープはあるのですが,オープンリ-ルの再生機がないので,お聞かせすることができません.

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▲指差喚呼を録音させてくれた521列車,78647.徳島駅.

今日は一日よく走り回りました.でも写真は駅で止まっているものばかりになりました.また夏の暑さの中,昨日からずっと続けて外に出ていることもあり,結構疲れました.やはり,動きすぎはよくない,ましな写真を撮るには一ヶ所でゆっくりとするのがいいと感じた次第です.帰りながらすれ違うC58を撮影しながら,明日は休んで体力回復,そして明後日は大坂峠へ行こうと思いました.

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▲帰りながらすれ違った列車.左:322レ,C58 155,右上:C58 351,右下:382レ,C58 295.

四国のSLを追って (1) 牟岐線地蔵橋駅/1969年7月25日 [四国各線]

四国は,全国に先駆けていち早く無煙化がなされた地域です.記録によると,1970年の4月にはすべてのSLの運行が終了し,ディーゼル化されました.私が趣味で鉄道の写真を撮り始めたのがその1,2年前で,SLに興味を持ったのがまさに無煙化の直前,1968年から1969年ころでした.

その当時の鉄道趣味の雑誌には,四国のSLが取り上げられることがほとんどなく,「無煙化が全国で最も早く実現されるだろう」とかいったニュースが流れるだけでした.SLファンたちでも四国のSLに注目した人は少なかったようです.現在ネットを検索しても,四国のSLの記録は,他の線区に比較して著しく少ないように感じます.走っているSLが,無煙化直前では,C58,C11,8620,C12(内子線)くらいのもので,種類もあまりパッとしなかったせいかもしれません.それとも,高校1年生の時に無煙化を迎えた世代でも現在55歳のはずですから,自由に撮影に行ける年齢になる前に四国からSLがいなくなってしまったということかもしれません.

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▲当時四国で見られた主なSL.小松島機関区にて.
  上:68692,下左:C58 332,333,下右:C11 31.1996.7.28.

私は,田舎が四国にあったため,そこを拠点にして撮影旅行ができるというメリットがあったので,1969年,完全無煙化前の最後の夏に四国へ撮影旅行に出かけました.当時予讃本線,土讃本線,予土線はすでに無煙化達成,高徳線,徳島線,小松島線が,私の行った1969年10月で無煙化予定,その他の線区もすべて翌1970年春に無煙化予定と,まさにぎりぎりの旅でした.したがって,私の旅も四国の東部に限られたものになりました.

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▲この旅行で購入した四国均一周遊券.
  大阪市内へ入る前に途中下車すると,このように切符を手に入れることができる.

◆7月25日
自宅を早朝に出て,駅で均一周遊券を買いました.四国均一周遊券は,この当時10日間で4,600円.急行に乗れるので,当時急行しか走っていなかった四国では,指定席以外乗り放題でした.普通列車を岡山,宇野へと乗り継ぎました.そう,このころは大阪発の岡山行き普通列車というのがありました.宇高連絡船「土佐丸」に乗って12:45に高松に到着.その足で一気に徳島から牟岐線地蔵橋まで行きました.途中,讃岐白鳥と板野で,C58に出会いました.この2つの貨物列車は,後ほど大坂峠で何度も出会うことになります.

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▲貨物384列車,駅員がタブレット(通行票)を受け取っている.C58 121,讃岐白鳥駅,1969.7.25.

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▲貨物386列車,C58 351,板野駅,1969.7.25. 私の乗っている列車は347D列車.キハユニ1512型.

ところで,地蔵橋駅へ急いだのは,8620型の引く521列車とC11の引く425列車が,ここで行き違うからです.これは,動画で見ていただけます.叔父から借りた8mm(フジカシングル8)で撮ったものでが,当時は若かったですねぇ,単一電池6本で動く重たいオープンリールのテープレコーダーまで所持し,音まで入れてあります.四国のSLの記録としては結構珍しいものではないかなぁ.


▲最初に入ってくるのが521列車,78647.
  後から入ってくるのが425列車,C11 31.1969.7.25.

この行き違いの列車ですが,列車番号がどちらも奇数(下りを意味する)なので,記録の間違いかと思いましたが,そうではないようです.動画のC11の引く普通列車は徳島行きなのですが,同じC11の引くこれと逆向きに進む列車は番号が偶数になっています.このC11の引く列車は小松島-徳島間を走っていたのだったと思います.他のディーゼル列車でも,徳島から小松島へ行くのは偶数,徳島に戻るのは奇数の列車番号が当てられています.つまり徳島から小松島へ行くのが上りなのですね.でも徳島から牟岐へ行くのは下り列車でから,地蔵橋では下り列車どうしがすれ違うというおもしろいことになるのです.

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▲牟岐行きの「下り」521列車,8620型蒸気機関車,78647.1969.7.25.

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▲徳島行きの「下り」425列車,C11 31.1969.7.25.

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▲425列車を引くC11 31.地蔵橋駅.1969.7.25.

p0096.jpgこの日はこのまま鳴門のユースホステルに泊まりました.明日は徳島線へC58を見に行きます.

◆左:鳴門ユースホステルの記念印.

播但線のC57 (3)秋の生野峠/1970年11月1日,11月24日. [播但線]

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▲秋の生野峠.693列車,DD543+C57.カラー写真はカメラ不調でこれ一枚だけ.1970.11.24.

生野峠を三重連が走る前の年の11月1日,播但線の長谷-生野間を訪れました.このときのこのあたりの自然の景色に惹かれ,どうしてもここを走るC57の写真を撮りたくなって,11月24日にもう一度撮影の旅を決意しました.姫路から生野の方へ入っていくと,列車の時間の関係で,どうしても生野に着くのが9時を過ぎてしまいます.さらにそこから歩いて撮影のポイントまで行くと,もうかなりのSL列車が通り過ぎた後になってしまいます.なにしろ高校の時分ですから,車で移動なんていう今のような状況は考えるべくもありません.

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▲和田山の姫路行き始発列車,632レ.和田山駅.C57 11.1970.11.24.

そこで,若かったですね,大阪から福知山を通って山陰本線の夜行列車で和田山へ廻り,和田山から始発に乗る予定を立てました.大阪21:45分発745列車で福知山到着が0:44,福知山で0:53発の829列車に乗り継ぎ,和田山到着が1:38です.ここで,播但線姫路行き4:38発の632列車を待ちます.この日程を今振り返ると,こんな夜中に普通列車が福知山線や山陰本線を走っていたことがウソのように思えます.まさに「日本国有鉄道」でしたね.移動手段に普通夜行列車を使う人もまだ結構いた時代です.

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▲撮影地メモ.11月1日,24日の撮影ポイントを後日書き留めたもの.右側が長谷方面.

メモには残っていませんが,生野駅で降りて歩き始めたのだったと思います.図の3番(ゴム印の番号,以下同じ)の撮影ポイントまで歩いて,まず長谷方面から登ってくる貨物691列車を撮影しました.だいたい生野峠を登ってくる列車にはDD54の補機がC57の前に付いているので真横からのアングルを考えましたが,この691列車には補機がありませんでした.

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▲下り貨物691列車.C57.少しシャッターを押すタイミングが遅れた.....1970.11.24.

少しすると,今度は補機の付いた貨物列車692列車がやってきました.これは上り列車ですから,長谷へ向かう下り勾配を走ることになります.3番のポイントから少し線路に近寄って,そして山の斜面に上がって撮影しました.

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▲上り貨物692列車.DD54 3+C57 93.1970.11.24.

さて次は下りの和田山行き姫路始発,631列車です.朝早く来たのでこういった列車が撮影できます.これは同じ鉄橋の反対側にまわり,4番のポイントでカメラを構えました.嬉しいことにこれも補機なし.真横からのアングルにする必要はありませんでした.いつも予想と違っていて,なかなかうまくいきません.でもこいつは九州からやってきた,門鉄デフと呼ばれる独特のデフレクタのついた,C57 11でした.これは,私が和田山から乗った631列車を引いていたものですから,姫路まで行って帰ってきたことになります.

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▲下り和田山行き始発,631列車.C57 11.1970.11.24.

この日は,このあと,さまざまのポイントで撮影を試みましたが,線路の横に背丈の高い草が茂っていて,低い位置からの撮影はすべて列車全体が写らないものとなってしまいました.この長谷-生野間は,景色はいいのですが,撮影ポイントの選択がなかなか難しいところです.最後に,生野を越えて新井の方へ下ったところで,上り636列車を撮影して,その日の旅を終えました.

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▲上り636列車.新井-生野間.C57 46.1970.11.24.

◇◇◇ 11月1日の記録 ◇◇◇

さて,この旅をしようと考えるもとになった11月1日の記録を最後に残しておきます.市川を含めた播但線の風景を中心に撮っています.

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▲上り636列車.C57 11.1970.11.1. 門鉄デフのC57 11が生野峠を下る.市川をまたぐこの鉄橋は,下の写真の奥の方に写っているものである.撮影ポイント5番から撮っている.

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▲上り636列車.C57 11.1970.11.1. 上の写真と同じ列車.標準レンズで撮影した.上方から撮影すると,鉄道模型のジオラマのようである.実はこの写真から三重連の撮影位置を思いついたのだが,これは下りで煙を吐いていないのできれいに写っているのだった.

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▲貨物695列車,DD54 11+C57 156.1970.11.1. 補機をつけて登ってくる貨物列車.背景の山の斜面上に撮影ポイント5番があって,そこから上2枚の写真を撮っている.

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▲631列車.C57 23.1970.11.1. 撮影ポイント1番.この写真右方向に進むと生野駅がある.広々とした高原のイメージのする長谷-生野間の風景だが,今はここを横切るように播但道が走っており,この風景はもう見られない.

播但線のC57 (2)生野峠 その1:C57三重連/1971年2月10日 [播但線]

今日は,前回に引き続き,播但線のC57.今日はその1として,C57三重連撮影の旅を紹介します.

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▲和田山方面新井駅から生野駅へ向かう694列車.C57 93.

SL写真を撮るというのは実は大変な作業です.1971年は,2月10日にC57三重連の列車が走るということで,ファンとしてはどうしてもそれはねらいたいと思うわけです.そして,二日後の2月12日には今度は重連が走ります.この重連は,前回紹介しました.この10日から12日の3日間はとても大変な行程でした.

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▲下り貨物691列車.C57 113.生野駅にて.

まず2月10日.三重連をどこで撮影しようかと迷った末,新井-生野間で撮ることに決めました.始発に乗って姫路へ行き,姫路発7:14の1624列車,もちろんC11が引いていますが,それに乗って寺前へ.しばらく寺前でC11を見ながら休憩.このときの写真が,先日紹介した寺前駅で給水するC11 177です.寺前からは611D列車で生野へ,生野着が9:19.そこで生野を出発する691列車を撮影しました.

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▲C57三重連636列車.新井-生野間.手前の小丘にたくさんのファンがカメラを構えている.

そこからは歩いて,新井の方へ.行く道々ではたくさんの鉄道ファンと出会いました.三重連の人気のすごさが伺えます.ホットポイントは鉄道ファンでいっぱい.上の三重連の写真にあるように,手前の小丘は,黒山の人だかりです.私はあまのじゃくな性格もあって,こういうところでは撮影したくないのですね.で,山の方へ上がっていくのですが,ものすごく深い雪,歩くのも大変で機材にも気を使い,精神的にかなりまいりました.写真でも分かるようにかなり山の高いところまで上がりました.もうへとへとですが,列車がやってくるまで,今度は寒さと空腹に耐える時間が延々と続きます.だって取り逃しはできませんので,ロケハンに使う時間も考えてかなり余裕を持って早く来ているわけです.こうなるともう,撮影をエンジョイするっていう気分ではありません.

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▲自分のイメージとしてのベストショットの位置にさしかかった三重連636列車だが,.....

そして待つこと約1時間.やっと遠くに汽笛とドラフトの音が聞こえてきました.こうなると元気になるのは当たり前です.遠くからフィルムの残り枚数をカウントしながら連続的に写真を撮っていきます.自分のベストポジションは,カーブを曲がったあとの手前の直線部分.ところが,運命は皮肉なもの.そこへ来たとき煙がカーブの外側に流れ,C57が煙に隠れてしまいました.なんたること.もっとよく考えるべきだったと悔しがることしきり!.結局イベントの記録写真のような,上の写真がベストの位置になってしまいました.

こんなふうに,SL写真撮影は体力勝負と結果失敗の連続です.しかしくよくよしていられません.明後日には重連が走ります.この撮影には,夜行で和田山へ行くという,その前の年11月24日の行程と同じルートで臨みました.それは,また次回に紹介します.なお,この日は帰りに姫路に寄って,一番上のC57 93が姫路第一機関区で休んでいる姿をカラー撮影しました.別ページ「姫路駅のSLたち」の写真です.

播但線のC57 (1)平地を走るC57/1971年2月12日 [播但線]

今日と次回にわたって,播但線のC57を紹介します.今日は平地を走るC57と題して,寺前までの線区を走るC57を紹介します.

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▲C57の重連による下り旅客631列車,福崎-甘地間.C57 137+C57 156.

上の写真は,C57の重連です.同じ年の2月10日には,三重連が走ったのですが,この日は重連が走りました.ネットの他のサイトを見ていると,偶然にもこれと同じ日,同じ列車を撮影している写真を見つけました.思わずそのサイトの掲示板に投稿してしまいました.このサイトはとても詳しく播但線のことが書かれていまして,参考になります.

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▲上り旅客636列車,C57 93.溝口駅付近にて.

播但線のC57の役割は,和田山までの旅客および貨物列車の牽引です.途中生野峠越えがあるので,C11では力不足なのでしょう.C57でもDD54の補機を付けて登っているくらいです.そんなC57にとって,寺前までの市川沿いの平坦なコースは,力をもてあましているように感じます.和田山には当然のことながら転車台があるので,C57の引く旅客列車は,上りも下りも,機関車は前を向いてつながれています.

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▲下り貨物695列車,C57 52.溝口駅付近にて.

今思い起こしてみると,播但線へSLを見に来たのは冬ばかりで,夏の季節に来たことがありません.SLは冬の方が煙が白くなって写真になるから自然とそうなったような気がします.

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▲上り旅客634列車,C57 52.甘地-福崎間.

播但線の寺前までの区間は,どこも同じような平地と田園風景で,ほとんど変化がありません.ですから,写真に撮ると同じようなショットになってしまいます.

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▲貨物690列車,C57 113.甘地駅.

では次回は,力強く峠を越えるC57を紹介します.

◆◆◆ 追補 ◆◆◆
この約1年前にこの地を訪れています.そのときに撮った写真も合わせて掲載しておきます.

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▲旅客636列車,C57 93,溝口付近にて.1970.1.25.

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▲貨物692列車,C57 97,溝口-福崎間.1970.1.25.

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▲貨物690列車,C57 52,京口駅.1970.1.25.

播但線のC11/1971年2月10日,12日 [播但線]

今日は播但線のC11を紹介しましょう.

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▲姫路の方に向かう1626列車,C11 363.甘地-福崎間.1971.2.12.

播但線のC11は,この時期には,姫路-寺前間の普通列車を引いていました.姫路-京口-野里-砥堀-仁豊野-香呂-溝口-福崎-甘地-鶴居-新野-寺前,と,市川に沿って姫路から中国山地の方に入っていきます.寺前を過ぎると,長谷-生野,と生野峠にかかり,分水嶺を越えて,新井から和田山の方へ下っていきます.C11は,この勾配にさしかかる手前まで運転されていたということになります.生野峠を越える列車を引くのはC57の役割です.

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▲下り6627列車,C11 177.下りはバック運転である.1971.2.12.

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▲上り1630列車,C11 345.上りは通常の運転となる.1971.2.12.

姫路から福崎に向かう下り列車は,すべてバック運転になっていました.そして寺前でそのまま機関車が前に付け替えられ,通常の向きになります.下の市川沿いの写真は列車番号が奇数なので下り列車.つまり,写真の左下の方に向かって走っています.ところで,当時は播但線にSLを撮影に来る人も増えて,歩いているとよく出会ったものです.特に2月10日は生野峠をC57三重連のイベント列車が走るので,たくさんのSLマニアと会いました.三重連のためではありませんが,溝口駅には,SLの時刻表が置いてありました.

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▲溝口駅のSL時刻表.ずいぶん黄ばんでしまった.

この時刻表を見ると,C11の引く普通列車は4桁の列車番号で,上りが8本,下りが5本になっています.上り下りで本数が合っていないので,列車の運用から考えると,3本の下りが回送になる勘定になります.この当時こういうことに気づかなかったのですが,下の市川沿いを走る列車の写真を見てはっと気づきました.この1627列車には,後ろにC11がぶら下がるようにつながっていて,しかも客車が10両編成になっています.こんな客の少ないローカル線に10両編成の列車を走らせるのは変ですから,これが回送を兼ねた列車だったのでしょう.今思うと確かめておけばよかったと思っています.

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▲市川に沿って走る播但線.1627列車.C11 345+C11 311.見にくいが後部にもう一台つながっている.1971.2.12.

さて,下り列車は,寺前に着くと3番線に入線し,停車するとすぐに係員が来て,機関車をはずします.「ボーッ」と一声,客車を置いてC11は一台で生野の山を背景に走り出します.駅を出たところで停止,ポイントが切り替えられて1番線に入って給水をします.

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▲朝の日射しを受けながら給水をするC11 177.寺前駅.1971.2.10.

しばらくは静寂の一時が訪れます.石ころが敷き詰められたプラットホームは,列車が飛び散らす鉄粉のサビが着いて赤茶色になっています.そこにじっとたたずんで朝日を浴びながら給水しているC11 177を見ていると,日頃の生活の雑念も消えて,本当に落ち着いた気持ちになれたのを覚えています(と当時の手記に書いてあります).

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▲給水中に,動力部の点検をしている.1971.2.10.寺前駅.

カンカンと車輪をたたいたりして点検は怠りません.毎日機関士の方も大変だったと思います.やがて,時間が来たら,C11 177は黙ってたたずむ客車の方に誘導され,そして先頭につながれて,出発を待ちます.

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▲出発を待つ3番線のC11 252.1632列車.1970.11.1.寺前駅.

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▲左:DISCOVER JAPANで各地に設置された駅スタンプ,寺前駅.
▲右:給水に向かうC11 177.1971.2.10.

◆◆◆ 追補 ◆◆◆
この約1年前に訪れたときの写真が出てきましたので,追加しておきます.

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▲1629列車,C11252,溝口-福崎間.1970.1.25.

姫路駅のSLたち/1970年11月1日・1971年2月10日 [山陽本線]

今日は姫路駅の風景を紹介します.

山陽本線の姫路駅からは,3つのローカル線が出ています.生野を越えて和田山までつながる播但線,新見まで延びる姫新線,そして飾磨港線です.

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▲左:飾磨港線の貨物2492列車,C11 252.1971.2.10
▲右:黒煙を上げて出発する姫新線の823列車,C58 241.1971.2.10

飾磨港線の記憶はほとんどありません.写真のようにC11が貨物列車を引いて走っていたことを覚えているくらいです.旅客列車の本数も非常に少なかったのではないでしょうか.ネットで調べると,末期には1日1往復しかなかったそうです.

姫新線は,蒸気機関車が引く旅客列車がまだこの当時は健在で,C11が引く4桁の列車番号の旅客と,C58が引く3桁の列車番号の旅客が一日に何本か走っていました.

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▲雪の生野峠を越えて姫路に着いたC57 93.少しの休息の後,また雪の峠に挑まねばならない.1971.2.10

もう一つが,播但線で,寺前までの普通列車をC11が,生野峠を越えて和田山までの普通列車をC57が引いていました.姫路駅の東の方(だったと思います)には,姫路第一機関区があって,C57,C58,C11などが,これらの線で働いた体を休めていました.

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▲姫新線1822列車,C11 178.1970.11.1.

上の写真は,朝,姫路駅の一番北側のホームに到着した,姫新線の普通列車です.この列車は,次の年の2月10日に訪れたときには,DE10が引いていました.このころのようにSLを毎日のように追いかけていますと,SLがだんだんと姿を消していく様子が実感できます.

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▲姫新線822列車.C58 17.1970.11.1.

このころにはKIOSKがあったのかどうか,通勤途中のサラリーマンは,駅弁売りのおじさんから,雑誌や飲み物,はたまた弁当を買っていました.上の写真のような風景は,この当時はごく普通でした.

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▲朝早く到着する播但線の632旅客列車.C57 156.1970.11.1.

姫路駅を,西側の姫新線とは全く逆の東端に行きますと,播但線の列車の到着を見ることができます.朝は通勤客を運ぶのでしょうか,次々と普通列車が入線してきます.朝は,C11が引く列車より,C57が引く和田山からの列車が多かったように思います.

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▲出発を待つ播但線631列車.C57 23.後方に昔の姫路の街が見える.1970.11.1.

C11の引く寺前行きの普通列車は,寺前駅に転車台がないせいか,バックで姫路駅を出ます.そして姫路駅に帰ってくるときは,前向きになっています.

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▲播但線1625列車,C11 252.子どもは鉄道ファンだろうか,機関士と何か話をしている.1970.11.1.

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▲左:姫路駅を出るC11の引く播但線普通列車.右:帰ってくる播但線普通列車.1971.2.10.

姫路市といえば兵庫県では2番目に大きな都市ですが,この当時は,3つのローカル線を走る,SLのターミナル駅になっていました.立派な機関区もあって,SLが集結する基地のようでした.

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